ああ、体調が良くないなと、和仁は思った。生まれつき身体が丈夫でないせいで、少しものを食べなかったり動き回って息切れするだけで、身体がずっしりと重たくなるような疲労感に襲われる。
 多くの人々の生きる場所に、呪詛という脅威をもたらしてしまったという罪の自覚に囚われるようになってから、生きる気力を削られた和仁の食欲は失せていった。時朝が日々の心配の種にしているように、少しずつやつれていくのが自分自身でも分かる。まともな食欲が起きず、近頃は、見かねた時朝が無理矢理に粥と漬け物をそばに置いて、食べ終わるまで見張っているという有様である。
 身体が動かない原因は栄養不足のせいなのだが、本当はそれだけではない。あてがわれた邸の庭にある背丈の低い桜の幹に寄りかかり、閉じた瞼の上にゆらゆらと動いている日の光を感じながら、和仁は静かに呼吸していた。食欲だけではない、生きようとする意志そのものが徐々に失われていっている。何年も騙され続け、生かされていた自分は、なんと滑稽で無様な生き物なのだろう。真実を知る者たちは和仁を指差し笑い、なにより真実を知った自分こそが己を死ぬまで馬鹿にし、嘲り、愚かだと罵る。このまま存在していても生き恥をさらすだけだ。他人にどう思われるかはよいとしても、自分という存在からは永久に逃れられないのだから。
 これほど温かでのどかな日々の中だというのに、絶望が、ただある。

「……和仁さん」

 生きるために本能的に気力を惜しみ、眠ろうとする身体を呼び起こす。誰かが近くにいるとは思わなかったので、心の中では驚いたが、身体はみじんも動かなかった。すぐそばに人の気配があり、その人物は和仁の返事がないと、近くに座ったようだった。土の上に膝をついたらしい。声の主が誰かは分かっていたので、和仁はゆっくりと瞼を開けた。光舞う、霞がかった視界に、覚えのある癖のある茶髪が見える。
 彼女に呼びかけたつもりだったが、どうやら声はかすれて出なかったようだ。

「和仁さん、大丈夫?」

 心配そうな口調に、和仁はおかしくなってふっと笑った。人に気を遣われる資格すら自分には存在していないというのに、少女はまるでそれを気にしない様子で話しかけてくる。いつもそうだ。誰にでも美しい心を分け与えるこの女性は、和仁という男にも平等に気をかける。少し変わっているが、本当に優しい女性だ。しかし、今の自分に、その優しさは受け入れがたい。

「……神子」

 ようやく、声が出た。和仁を見つめる花梨は、悲痛そうな表情を浮かべていた。そこにあるのは哀れみと同情だった。

「……何しに、来た……」

 腹筋の力が衰えているらしく、喋ることも億劫だった。正直、この場所で何もせず休んでいたかった。罪を償うこと以外、他にすることなどないのだから。自分に何ができるかは分からないが、体力が戻ったら、少しでも誰かのためになることをしよう。けれど、こんなにも弱っていて、しかも身体も丈夫でなくて、他人のために果たして何ができるというのだろうか。
 彼女の姿を見ようと努力をしたのは、そのように気力を振り絞ることすらも懺悔の一つだったからかもしれない。そんな姿を見たからか、花梨は、和仁さん、と微かに唇を動かして、なぜか目に涙を浮かべた。

「ご飯、ちゃんと食べてますか」

 言葉を耳にした和仁は、再び鼻で笑った。自分を心配するのはやめて欲しいと思った。罪人となった男のもとにやって来ること自体、意味不明で、いったい何の義理があって少年を気にするのか疑問だった。優しさを与えてくれようとするのは嬉しい、だが、これでは自分が惨めなのだ。彼女は自分と相反する存在だ、まるで属する世界が違うように、汚れなく、神聖で、美しい。

「どんどん痩せているわ、和仁さん」

 もう、よいのだ。

「ちゃんと……」

 言葉をかけるのを、どうかやめてほしい。

「ちゃんと、生きようとして……」 
「一体、どんな理由があって、そんなことを言えるのだ」

 本当にしんどかったが、彼女を遠ざけることが必要だと決心して、和仁は無理をし、腹の底からはっきり声に出した。相変わらず身体は幹に寄りかかったまま、少年の言葉に目を丸くしている花梨をしっかりと見据え、後を継ぐ。

「ちゃんと生きてほしいなどと、お前が私に諭す義理はあるのか」

 受け売りのような台詞は迷惑だと吐き捨てる。花梨は押し黙り、悲しげに目の前にいる少年を見つめ返す。彼女の哀れみ深い態度を見て、和仁は、本当に相容れない存在なのだと悟った。そう感じた理由は分からないが、きっと二人の生き様は生まれた時から違っていて、だからこそ、彼女は和仁の心など知りうるはずがないし、和仁も彼女の心理を分かるはずがないと思った。両者は、永遠に理解し合えないのだ。

「私の立場や想いを知らずに、軽はずみで、そのようなことを言わないでほしい」

 突き放しながら、これは自分の内にある真の望みだと分かってほしいと、そう切実に願っていた。
 花梨は和仁の言葉が終わった後もしばし黙っていたが、ふと身動きすると、地面に力なく横たわっていた和仁の片手を控えめに取り上げた。彼女の意図は分からなかったが、和仁に、もはや抵抗する気力はなく、したいがままにさせていた。花梨は、いたわるように指先を軽く撫で、両手で和仁の手をそっと包み込むと、透きとおった瞳で男を見据えた。

「和仁さんが食べないというのなら、私も食べたくないわ」

 急にそんなことを言われ、和仁は瞠目した。疲労しているのもあって、一体何を言っているんだ……と溜息混じりに答えることしかできなかったが。

「お前には、関係がないだろう……」
「関係あります。私は、これまでにあなたと関わり合いを持ったんですもの」
「関係とは言うが……我々の間にあるのは、敵と味方という関係だ」
「和仁さんが敵だなんて、私、思ったことありません」

 しかし本当に疲れてきて、和仁は頭を幹にもたれさせながら、お願いだと眉間に皺を寄せてかたく目を閉じた。

「すまない、神子。今、本当に身体がつらくて……このように話をするのも億劫なのだ。それに、神子の神聖な気は、私には毒だ。お前にとっても罪深い私の気はそうなるだろう。神子、私の気に汚される前に……」
「和仁さん」

 不意に、額に何かが触れた。その後、両の頬に手のひらがあてがわれて、ああきっと額に触れたのは彼女の額なのだろうと、和仁は閉じた視界の中で考えた。驚きを示す余裕もなく、彼女の行動にいったい何の意味があるのだろうと、落胆を抱き、呆れることしかできなかった。自分と違い、今や人々から感謝され神聖視される女性が、卑しさと邪悪にまみれた男に憐憫を抱いている。互いが――少なくとも男の方が、心苦しくなるだけではないか。

「神子……お願いだ」
「和仁さんのそばにいます」

 迷いのない響きに、和仁は目を開けた。すぐ間近に花梨の顔があった。距離が近すぎて彼女の表情はよく分からなかったが、二つの瞳があまりにも真摯で、あまりにも目の前にいる男を視ていて、ああ、この自分と年も変わらぬ女性は、今、この孤独な少年のことを想い、その口から放たれる言葉に嘘偽りなどないのだと、和仁は確信した。

「なぜ?」

 和仁は純粋な疑問を感じ、そう問うた。
 神の化身と呼ばれる少女は、質問には答えなかった。ただ瞳を伏せて微動だにせずにいるだけだった。その姿は、まるで彼女にしか聞こえない何かを聴いているようで、彼女のこの不思議な行動を邪魔をしてはならない気がし、和仁は唇を閉じ、黙っていた。その間、いま自分がした問いかけは少女にとってひどく稚拙だったように感じられて、たとえどんな答えが返ってこようとも、自分は、少女がこれからなそうとしていることを静かに受け入れるしかないのだと、諦めにも、寛容にも似た感覚が湧いてきたのが分かった。
 和仁は、半ば眠りにも似た状態で、自分の中からする弱々しい呼吸と、頭上から降るささやかな小鳥たちのさえずりと、遠くでこだます大鳥の鳴き声と、ときどき強く吹く風の音を聴いていた。

 花梨は、和仁の額に自分の額を合わせたきり、沈黙し、日だまりの中で、どのくらいの時間か分からなかったが、ずっとそうしていた。
 それは、おそらく祈りだった。
 和仁か、あるいは彼女を守る聖なる生き物に捧げるための、深い深い祈りだった。
 きっと彼女にしか知りえない清純な祈りなのだろう。
 まるで額の先から少年の中にある邪悪なものを吸い上げ、浄化しているかのような。
 少年の閉じた目から、ひとすじの涙が流れた。
 その涙は、頬にあてがわれる少女の手の甲を流れ落ち、ゆっくりと地面に吸い込まれた。